挨拶と〆の型には、理由がある
社会学に、人の集まりが「儀式」として働く条件を整理した理論があります。宗教の話ではなく、飲み会でもスポーツ観戦でも起きる、ごく日常的な現象の理論です。
条件は4つ。同じ場に一緒にいること。中と外の区別があること。全員が同じものに注目していること。気分が揃うこと。
これが揃うと、4つのものが生まれます。参加した人が持ち帰る気持ちのエネルギー。「うちら」という仲間の感覚。その集まりを象徴する合言葉やマーク。そして、その合言葉を守りたくなる気持ちです。
枠は、条件がそろいすぎている
並べてみると、配信枠はこの4条件をかなり満たしています。同じ時間に一緒にいて、ファミリーという中と外があって、みんなで同じ画面を見ていて、コメントといいねで気分が揃う。
だから枠には自然に合言葉が生まれます。呼び名、絵文字、内輪ネタ、決まった掛け合い。ここで理論が教えてくれるのは、その価値の出どころです。
合言葉の価値は、意味が正しいことではなく、この枠で一緒に唱えてきた回数から来ます。外から来た人が内輪ネタを茶化したときに空気が凍るのは、単に失礼だからではなく、みんなで充電してきたものが雑に扱われたからです。
そして充電されるものは、放置すると放電します。毎回の挨拶や締めが効いているのは、充電する型として毎晩回っているからでした。
逆に、エネルギーを奪う型もある
同じ理論に、失敗した儀式の話も出てきます。形だけ揃っていて、注目も気分も伴っていない集まりは、エネルギーを生むどころか奪う。
心当たりがあるかもしれません。義務になった挨拶、誰も乗っていない掛け合い、参加しないと悪い空気になっている企画。「盛り上げよう」として型を増やした枠が、かえって疲れて見えることがあるのは、放電するほうの型を回しているからです。
見分け方はひとつで足ります。それが終わったあと、空気が上がるか、義務感が残るか。
なんとなく続けてきた挨拶は、たぶん枠でいちばん働いている仕組みです。新しく何かを足す前に、そこがちゃんと回っていることを確かめるほうが早いかもしれません。
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